翻訳における無意識の印象操作~性別や職業に対する固定概念~
実家の母は翻訳や通訳、フリーランス、ベトナム、技能実習生、ひとり親…など、私に関係する新聞記事の切り抜きをまとめて送ってくれます。その中でタイトルの通り翻訳における無意識の印象操作について書かれたとても興味深い記事があったので、ここで共有したいと思います。
2020.9.27発行 北陸中日新聞の「言わねばならないこと」という欄で、文筆家の師岡カリーマさんが「翻訳の職業差別」のタイトルで翻訳における無意識の印象操作について書かれています。外国語のオペラやドラマにおける日本語訳が男尊女卑であったり、職業差別的に訳されているという内容です。
師岡さんは、オペラやドラマなどでは原語(原版)は対等な話し方や知的で丁寧な口調であるのに対して、日本語訳では女性が男性に対して謙譲語を多用して過剰にへりくだっていたり、「~だわ」、「~なの」といわゆる女性言葉で訳していることが多いと指摘しています。また、スポーツ選手やミュージシャンのインタビューなどになると、「~なんだ」、「~さ」と軽い口調に訳し彼らの存在を不当に軽く見せる一方で、「稚拙なトランプ大統領の発言はきちんとした日本語に訳される(原文ママ)」として一種の職業差別だとしています。
なるほど…確かにハリウッド映画の字幕・吹替、国際ニュースで見覚え聞き覚えがある気がします。日本語は敬語(しかも多種多様)があり、男女や年齢で語尾など使う話し言葉が異なることが多いということに加えて、訳者の奥底にある固定概念が訳文に現れてしまうのかもしれません。あるいは訳者個人は違和感を感じつつも、従来の一般的な模範訳や読者や視聴者の大多数がすんなり受け入れられるであろう表現を使わざるを得ないケースもあるかもしれません。
例えばニュース中のインタビューなら、「ですます」で話す人が多いことから、訳す時にあまり迷わなくてもいいでしょう。ところが、師岡さんが例に挙げられているよう劇中や文学の台詞ではどうでしょうか…私ならとても迷います…。
翻訳はちょっと横に置いておいて、例えば昔話でおじいさんの一人称は「わし」、語尾は「~じゃ」が多かったりしますよね⁉でも実際にそのように喋っているおじいさんに会った記憶はありません。それでも仮に高齢のおじいさんが映っている映画の一場面を見せられてアテレコやテロップをつけろと言われたら、「わし」、「~じゃ」を使いたくなると思います。これは私が「おじいさんはこう喋るもの」、「そう喋ってこそおじいさんらしい」と思っているからなのでしょう。かといって登場人物みんなを同じ口調で訳したらどうでしょうか…それもまた趣に欠けるというか…。
または親が子供に何かを言い付ける時に「~するのよ」と聞けば母親らしいと、「するんだぞ!」と聞けば父親らしいと感じるかもしれません。でも実際にはほかにも「~しなさいよ!」、「~しなよ!」、「~しろよ!」「~するんだよ!」、「~するんですよ!」などがあります。ここで「らしい」って何だろう⁇というジェンダー論に発展してきます。あるいは職業に対するステレオタイプのイメージで、ブルーワーカーなら「~しろよ!」ホワイトカラーなら「~するんですよ!」など…。
どうするのが良いのか?難しい問題で私も今後の仕事の中で悩む場面がたくさんありそうですが、これからは字幕や吹替を印象操作の視点で意識的に見聞きするようにしてみたいと思います。
写真は公園で昆虫採集に励む子供たち。一人称は俺、僕、〇〇ちゃんと様々。使う言葉や言い回しに男女差はまだあまりないような気がします。
0コメント