あまのじゃくも時として焦燥感!? (あまのじゃく編)

タイトルは決して本日現在の感情ではないと前置きして…。恐らくよっぽどリア充な人か自己肯定感の高い人や自己を確立している人でない限り、誰もがつい自分と他人を比較して焦りや不安を感じることは日常生活の中で時としてあることだと思います。特にSNSが発展した現代では、昔なら意識することがなかったような相手ですら比較対象になり得ます。


私は好き勝手にのらりくらり細々と仕事をしつつ娘との2人暮らしを楽しんでいるので、他人を見て焦りを感じるタイプとは違うと思われやすいです。が、私にもごくたまに(のらりくらりなので常時ではない(笑))焦りの波が訪れることがあります。今回は「あまのじゃく編」と「焦燥感編」に分けて自分なりに整理してみたいと思います。


フリーランス/ひとり親/独身中年女性/語学関連の仕事に従事/日本(非ベトナム)住まい/年齢の節目…が故の焦りなど要因は色々あります。何か少しでも私と共通する部分がある方には共感していただけるかもしれません!?または、上記の要因のうち今後どれかに当てはまりそうな方なら、「あぁ、こうなるとこういうことで悩んだり焦るようになるんだ」という例として捉えてもらえればと思います。誰得!?な内容ですが…時間潰しにでも、冷やかしにでもご覧いただけたら嬉しいです。


私は「やるな」と言われればやりたくなり、「できない」と言われればやってやろうじゃないか!と思うあまのじゃくな性格(自己分析)で、大学を卒業したあたりから周りの人がお勧めしない方の道ばかりを選んできて15,6年、今年38歳を迎え40歳も目前に迫ってきました。


これまでのあまのじゃくな進路?として挙げられるのが、1年間の交換留学を終えて帰国した大学4年生の時。周りはリクルートスーツに身を包みエントリーシートを書き企業面接を受け、中には既に内定をもらっている人もいるなか、ベトナムの大学院に進学することに決めたことです。


今でこそ現地の大学院には外国人向けにベトナム学部ができたり日越両国が運営に携わっている大学が設立されたりもしましたが、当時は外国人受け入れ自体の前例がなく、自分でメールや国際電話で問い合わせたり現地の窓口に赴いて書類をもらったり。恩師や友人にはそんなところへ行ってどうするの?と言われたり、日本の大学院に所属した上で研究留学をすべきだと言われました。あまのじゃくな私は行くなと言われれば益々行きたくなるし、前例がないと言われれば私がその例を作ればいいと考えを変えませんでした。当時は何学年か下の後輩に「私も就活に失敗したら先輩みたいにベトナムの大学院に行こうかなぁ」と言われたこともありました(苦笑)。きっと社会不適合な先輩だと思われていたことでしょう。


さらにその後、現地採用で就職する際も「現地採用は使い捨て」「薄給」「現地採用の勤務経験は日本社会では認められない」等々言われつつ現地就職を決行。就職後も旧友に再会する度に駐在員を目指して日本で就職した方が良いとも言われました。それでも私はアドバイスを聞き入れず…。そして25歳で結婚、28歳で「30歳までに日本で一度は社会人経験を積んでおこう」と帰国(ここだけはみんなに賛成されました)。31歳で出産、32歳で離婚、転職を経てフリーランスに転身して現在に至ります。


勤め先を退職すると決めた時は心身ともに疲弊していたので転職先は決めず、今は働かず何も考えないで休みたい!自由になりたい!好きなことがしたい!娘と時間をたくさん過ごしたい!という気持ちで、しばらく休んでからフリーランスで仕事をすると宣言しました。この時、私の状況を知る人は家族とごく僅かな友人だけでしたが、姉たちにはキャリア(というほどのものはなかったけれど)にブランクが空くのはリスクがある、年齢や家計のこともあるし転職先を決めてから辞めるべきだと言われたのを覚えています。ところが私は「今どき40代でも転職は当たり前。年齢で断るような企業はこっちから願い下げ。フリーランスを数年試してみて継続が無理そうなら再就職すればいい。自分なら再就職も難しくない。」と根拠のない自信で、税務署へ開業届を出しました。


離婚や引越し等々で出費が嵩んだ上、開業して求職中でもないので失業手当は申請できず、開業当初は経済的には苦しかったですが、解放感や充実感があり少しずつお仕事がいただけるようになっていくことに達成感もありました。都心の満員電車に毎日往復2時間揺られてくたくたになり時間との戦いに娘に対してもイライラしがちだった会社員時代とは大違いでした。娘との時間もたっぷり取れ、娘の急な体調の変化にも職場への影響を気にする必要もなく気持ち的にとても楽になりました。また、大きな仕事が入った時には家族が全面的にサポートしてくれることは感謝しきれません。2年目以降は仕事も軌道に乗り経済的にも精神的にも余裕が出てきました。


こうしてあまのじゃくの道を進み、特にフリーランスに転身してからは生活に育児に仕事の全てを自責のもと決定、実行してきました。そうしていくうちに物事の考え方も「何かに挑戦して仮に失敗しても、経験を積めるのであって失うものはないし恥じることもない、この広い世の中で私が失敗したところで誰も私の成否を気にしている人などいない、何でもやってみないと分からない!」と開き直り、人脈や実績がないなりに様々な企業に問い合わせをしたり、会ってお話を伺いたい方に連絡を取ってみたり積極的に行動するようになりました。望んだ結果に繋がれば感謝感激ですし、空振りに終わることもありますが、試してみたということで自分なりに納得?消化して次に進むことができる図太さも身につけました。


その一方で、いまだにふとした時に他人と自分を比較して焦りや迷いを感じることがあります。比較対象は常に同じような層や属性の人ということではなく、自分の年齢や立ち位置によって変わってきています。あまのじゃくな私が時として比較してしまう対象や、その時に感じる焦燥感については…あまのじゃくも時として焦燥感!?(焦燥感編) で。








写真は色々あっての2015年11月の一コマ。離婚から数ヶ月が経ち、勤め先だった右肩上がりの企業では業務が膨れ上がり私が入社条件に出して約束された定時退社OKという話は何処へやら…。営業や技術者は月に数十名ずつ増やすのに対し、人事や総務のバックオフィスの増員やアウトソーシングをしない方針だったため、私が1人で担当していたベトナム人社員(社員全体の90%を占める)の在留資格申請や更新、社会保険の加入脱退の手続きが日増しに増え、朝7時過ぎ~夜22時過ぎまでの勤務かつ土日のどちらかも出勤というのが常態化していた頃です。


当然保育園の送り迎えができるわけもなく…実家(金沢市)の母に娘を預けてみてもらい、住民票がなくても通える保育施設を探して見つけた教会が運営している乳児園に娘を通わせてもらいました。そして隔週の金曜日は就業後にそのまま東京駅から新幹線に乗って帰省していました。深夜に実家に着いて土日を実家で過ごし日曜日の夜行バスで帰京、月曜日の朝は6時頃に東京駅に着いてそのまま出勤して週末にできなかった残務整理をする生活でした。


当時は都内の保育園に籍を置いていたので2ヶ月に1週間は娘と母に上京してもらい通園するという形で、上京に合わせて娘と父親の面会交流を設定していました。写真は都内の保育園の親子遠足の様子です。今こうして改めて見ると私も若い(6年前なので当然)ですが、疲れて?やつれて?見えますね…苦笑 ちょうどこの頃から「年度末まで頑張ったら退職しよう」と考え始めた頃だと記憶しています。

ベトナム語通訳翻訳者 田崎広野

フリーランスベトナム語通訳翻訳者 田崎広野の活動を紹介する個人ページ Trang cá nhân của Tazaki Hirono: Phiên dịch viên Nhật - Việt tự do

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